大阪府立春日丘高等学校 陸上競技部OB会 |
陸和会 |
陸上競技の縁 澤木啓祐さんへのインタビューより 筆者/木下芳広(昭和47年卒) |
昭和37年3月卒の澤木啓祐さんに、筆者からのインタビューに答えてもらっての記事です。 2019年2月20日(水)に順天堂大学さくらキャンパス特任教授室にて、インタビューに応じていただきました。 約2時間に及ぶインタビューでした、割愛したところが多くありますこと、お許しください。 |
順天堂大学さくらキャンパス (千葉県印西市平賀学園台) スポーツ健康科学部 澤木啓祐先生特任教授室にて/2019年2月20日 |
■NHK全国中学校放送陸上大会、澤木さんの長距離選手としてのデビューの大会です。 吹田第3中学3年生の夏(1958年・昭和33年)、澤木さんはこの大会で、1500m全国2位となりました。 春日丘高校への進学は、お母さんの勧めがありました。 1924年(大正13年)高島信義先生が新任教師として春日丘高校に赴任され、 澤木先生のお母さんが若き高島信義先生の数学の授業を受けました。 澤木さんの高校進学時には、その高島先生が春日丘の校長となっておられました。 ここから澤木さんと春日丘の縁が始まります。 ■高島先生との縁は澤木先生と順天堂大学をも繋ぎました。 順天堂大学の当時の体育学部長東俊郎先生と高島校長とは親戚関係にあり、 当時無名の順天堂大学体育学部への進学を高島先生が保証されました。 早くも高校1年で全国的な選手として頭角をあらわした澤木さんは、 3年の日本選手権で1500m 2位となり、全日本クラスの選手となります。 1959年(1年次) 全国インターハイ(東京) 5000m 6位 15分24秒6 国民体育大会(東京) 5000m 3位 15分16秒0 1960年(2年次) 全国インターハイ(王子) 1500m 優勝 4分03秒0/ 5000m 優勝 15分12秒0 国民体育大会(熊本) 1500m 優勝 3分59秒0/ 5000m 優勝 14分54秒0(現在の春日丘高校記録) 1961年(3年次) 日本選手権大会 1500m 2位 3分58秒4 国民体育大会(秋田) 1500m 1位 4分10秒2/ 5000m 2位 14分59秒8 1960年(昭和35年)兵庫県王子陸上競技場 全国インターハイ(全国高校総体) 総合点 27点 春日丘高校 男子総合優勝 (2位磐田南19点、3位木更津18点) 澤木さんは1500m、5000mに優勝され、12点を獲得しました。 ■このようにしてわれわれに力と根性をつけて 全国制覇に導いて下さった先生や先輩に厚く感謝している。・・・。 苦しい練習、困難な勉学との両立に、お互いに励まし合い助け合って、 廊下であっても登校途上でも「インターハイでは勝とうぜ」を合言葉にして来た。 樋口仁志さん(昭和36年3月卒)の手記 「雨の日も走って ―インターハイ優勝のかげに―」より(春日丘高校50周年記念誌) ■澤木さんの練習コーチは昭和33年3月卒の高島雄作さんでした。 顧問の高塚泰次郎先生は監督的な指導、と役割分担していた、と澤木さんは言います。 当時大学生だった高島さんは毎日のように春高のグランドへ来て、指導されたようです。 高塚先生が自分にないものをと、高島さんを澤木さんのコーチに依頼された、とのことです。 澤木さんは3年次には全国インターハイに出場していません、 日本陸上競技連盟のヨーロッパ遠征団のジュニア部門選手に選ばれ、 インターハイ時にはヨーロッパを転戦していました。 ■顧問の高塚泰次郎先生(部員は泰ちゃんと呼んでいました)は 澤木さんを自宅へ呼ぶなどして、家族のように指導されました。 筆者が高校1年の時も泰ちゃんの家で正月会をしていただき、各自お餅を持ち寄りました。 澤木さんを順天堂大学へ送る際に、高塚先生宅で送別会が開かれました。 「会が終わって、澤木をタクシーで帰した。 その揺れる赤いテールランプを見送って、私は澤木との3年間を想い、 へなへなとその場にすわりこんでしまった」 (陸上競技マガジンの高塚先生の手記、「インターハイ全国優勝の思い出、男子の本懐ここにあり」より) ■春日丘高校昭和37年3月卒東京地区同期会は、 ここ30年毎年2回開催されています。 澤木さんはほぼ毎回出席し、 早稲田の名誉教授をはじめとする同期生達の活躍に接しているとのことです。 その姿勢には、縁を大切にする澤木さんが伺えます。 陸和会総会へも出来るだけ参加されています。 ■陸上競技の魅力は何ですか?、 また、陸和会の会員に向けて何かありますか、と尋ねました。 澤木さんから含蓄のある回答をいただきました。 陸上競技には、サッカーや野球のようなゲーム性やプレーの連携はない。 だからこそ、個人競技である陸上では、より縁を大切にしてほしい。 練習環境、練習仲間との、縁・めぐり合わせを大切にしてほしい。 陸上は生涯スポーツとはなりにくいので、引退したら、 ゴルフ、テニス、サイクリング、などといった他のスポーツを楽しむ人も多いでしょう。 陸上競技のOBは、陸上を縁として、スポーツを拝するようになってもらいたい。 |
「ヨーロッパ転戦(1967年ストックホルムにて)」 写真左より 左)ロン・クラーク(オーストラリア)/5000m、10000m世界記録樹立 中)澤木啓祐さん 右)ガストン・ローランツ(ベルギー)/3000m障害世界記録樹立 |
澤木啓祐さんの主な競技歴 |
1965年 ユニバーシアード ブタペスト大会 5000m 優勝 13分45秒2(日本新) 1966年 英米4大学対校特別レース 5000m 優勝 13分36秒2(日本新;世界ランク4位) (エリザベス女王より優勝杯を下賜される) 第5回アジア大会(バンコク) 1500m 優勝 3分47秒3(大会新) 5000m 優勝 14分22秒0(大会新) 1967年 ユニバーシアード東京大会 5000m 優勝 14分03秒8 10000m 優勝 29分00秒0 1968年 イギリス男子選手権 5000m 優勝 13分45秒6 (エリザベス女王よりメダルを下賜される) 第19回メキシコオリンピック 5000m、10000mに出場 1972年 第20回ミュンヘンオリンピック 5000m、10000mに出場 |
最高記録 |
1500m 3分44秒5 1967年・当時の日本記録 5000m 13分33秒0 1968年・当時の日本記録 10000m 28分35秒2 1968年・当時の日本記録 以上の記録は、いずれもアンツーカーもしくはシンダーの土トラック でのものです。 20km 60分22秒 1967年・当時の日本記録 |
<略歴> |
澤木啓祐 順天堂大学 特任教授/名誉教授・医学博士 1943年大阪府吹田市生まれ 春日丘高等学校2年在学中インターハイ(1960年)1500m・5000mで個人優勝、総合優勝(27点)を飾る。 高校3年時にはヨーロッパを転戦するなど世界を経験する。 順天堂大学体育学部進学後、1500m・5000m・10000m・20kmの日本記録を更新、 卒業後、順天堂大学へ奉職後も数々の種目において日本記録を更新する。 順天堂大学陸上競技部監督として、19年間でインカレ総合優勝10回、 箱根駅伝総合優勝9回など多くの大会を優勝に導き、順天堂大学を日本学生陸上界のトップへと導いた。 2004年よりスポーツ健康科学部長を経て定年退職。 オリンピックには選手・コーチ・監督として4回の出場を果たす。 日本陸上競技連盟強化委員長・専務理事・副会長、関東学生陸上競技連盟副会長、 国際陸連クロスカントリー委員、JOC強化副本部長・情報医科学委員長、 国際マラソン・ロードレース協会理事、日本陸上競技学会会長を歴任、 現在、順天堂大学特任教授・名誉教授、 日本ブラインドマラソン協会・理事長、日本学生陸上競技連合・副会長などを務める。 |
筆者 木下芳広<略歴> 昭和47年(1972年)3月春日丘高校卒、ハンマー投げで全国インターハイ出場 順天堂大学体育学部卒業後、1976年4月〜2006年3月大阪府立高等学校保健体育科教員 2017年3月 関西大学大学院西洋美術史専修修士課程修了、文学修士 2018年11月より、陸和会役員 ●第2回/平成4年3月卒 蜂須賀保明さんへのインタビュー ●第3回/昭和49年3月卒 上島一夫さんへのインタビュー 次回は秋頃に、平成年卒業の会員へのインタビュー記事掲載を予定しています。 |